わかっちゃいるけど、やめられない。

本当に、ご苦労さまでした。

俳優の植木等さん、心不全で永眠

どんなにつらくても笑い飛ばし
何もやってないようで影で努力をして
力まず自然体に生きると生き方の指標を
(演じていたとはいえ)与えてくれた人。
一番自分に足りない点です。


新聞にも書いてありましたが、実は植木等さんのご実家は浄土真宗のお寺。
スーダラ節の内容とはマ逆です。
この歌を歌うにあたって、はじめ青島幸男から渡された歌詞を見たとき
植木等さんは「こんなふざけた歌が歌えるか!」と激怒したとか。
しかし、お父上(住職)の一言で納得し、歌うことにしたそうです。

その一言は、

「この歌には浄土真宗の教えがある」

というもの。
何でも、歎異抄(たんにしょう)の十六条に

「信心の行者、自然にはらをもたて、あしざまなることをもおかし、
同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心(えしん)すべしということ。
この条、断悪修善のここち(考え)か。
一向(浄土真宗)専修の人においては、回心ということ、ただひとたびあるべし」

とあるそうです。
どういう意味かというと
腹がたったり、悪いことをしたり、人と口論したりしたときは必ず反省するが、
繰り替えしてしまう。
悪いことをやめていいことをしようと地下っても、やっぱりやってしまうのが
普通の人の姿である。

(これを煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)というそうです
 煩悩が身に備わっていて、離れることの無い人という意味。)

ようするに「わかっちゃいるけど、やめられない」ということですね。

真宗では自分の力で悪を絶ち、善を行っていくなど到底できない凡夫である身を
 まず自覚し、それを救ってくれる他力(阿弥陀仏)の言うこと(本願=)を良く聞き、 それを頼みにすることでしか往生できる道はないと思うことが
 回心(未信心者が信心者になること)である・・・と続いてます。

 これが本当の意味での『他力本願』らしい。
 人任せにする・・・というのは本当の意味ではない。)


屁理屈かもしれませんが、これがなかったらスーダラ節が生まれなかったと思うと
人の縁って何があるかわからないですね・・・。



そういえば、他力本願を間違って会得している人がたくさん居て、今日の会議のとk(以下愚痴なので省略w