「明治の父」の孫の孫はブラブラブラボー


Wikipedia見てたら吹いたんだが、
小栗忠順

主役にされて書かれている作品はなく、映像作品とかでもだいたい敵役に書かれてるんですが、
司馬先生には「明治の父」と呼ばれ、(以下wikipediaからの引用)

またフィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていた為である。忠順は小判と金貨の分析実験を行って交換比率の改定に成功し、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載する。また忠順がアメリカの造船所を見学した時、日本との製鉄技術の差に驚愕し記念にネジを持ち帰った。

その後ナイアガラ号に乗り変え、大西洋を越えて世界一周し、品川に帰国。帰国後、外国奉行勘定奉行などの要職を歴任。財政立て直しを指揮する。当時の最大の出費は幕府が瓦解するまでに44隻の艦船を諸外国から購入していたことであり、その総額は実に333万6千ドル(現在の340億円以上)に上った。そこで駐日フランス公使レオン・ロッシュとの繋がりを作り、造船所の具体的な提案を練り上げた。

文久3年(1863年)12月8日、造船所建設案を幕府に提出。多くの反発をうけたが、小栗はそれまでの手腕によって徳川慶喜の絶大なる信頼をうけており反対派は沈黙。11月26日に実地検分が始まり建設予定地は横浜に決定された。費用は4年継続で総額240万ドル(現在の300億円)。これが徳川埋蔵金説につながったとも言われている。建設に多くの鉄を使用するにあたって、群馬県下仁田町中小坂で鉱山採掘施設との建設ラインを引く。これにより建設日数が短縮された。

横須賀造船所の建設で相当な費用を幕府に負担させたという説もあるが、後年日露戦争の英雄東郷平八郎は、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」とし、地方の山村に隠棲していた遺族を捜し出し礼を述べた。その後、孫は内務省に勤務することにもなった。

といわれるほどの人物でした。


で、関連項目のところを良く見て欲しい。

■関連項目
幕末の人物一覧
小栗かずまた - 玄孫で漫画家。
関口製造所
ロシア軍艦対馬占領事件

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